世界が感嘆した日本人の国民性

 

 平成二十三年三月十一日、束日本の太平洋沿岸を未曾有の地震と津波が襲いました。二万人を越える死者・行方不明者を出し、東京電力福島第一原子力発電所で起こったあの深刻な事故が、日本国民の心を何日も衝撃と不安に揺り動かし続けました。

 しかし、そうした中、この大災害に対処した日本人の冷静沈着な行動に対し、世界中の人々が感嘆と称賛の声を寄せたことは、今なお記憶に新しいところです。

 東京においても電車が全面ストップして帰宅難民があふれる中、やむをえず徒歩で家路を急ぐ人々に対して、沿道の企業や商店、学校などがロビーを開放して休息所やトイレを進んで提供した事例が、テレビなどで数多く報道されました。

 中には社員総出で帰宅する人々に、自社を開放していることを知らせ「皆さん頑張りましょう」と呼びかけた会社もあったといいます。

 震災の翌朝、私が訪れた新宿駅では、帰宅が困難になった方々が階段に座って電車が動き出すのを待っていました。しかし、誰が呼びかけた結果なのかはよくわかりませんが、座る場所もないくらい混雑している中でも、中央の通路だけは「通る人がいるから」と空けてあったのです。

 計画停電が実施された時には、電車の本数が削減されたこともあり、どの駅も乗客が入りきれないような大混雑となりました。しかし、この時も一切混乱はありませんでした。人々は文句をいうこともなく、ただひたすら駅員の指示に従い、整然と行列をつくって、電車の来るのを静かに待ちました。

 それを見たあるドイツ人が、「日本国民はアーミーか」と叫んだそうです。軍隊でしか考えられないような規律正しさを、日本国民は示したのです。

 さらに、震災直後から統々と手を挙げたボランティア希望者の数や義援金の総額など、いずれも私の想像を越えるものでした。

 こうした状況を、アメリカのニュース専門チャンネルCNNテレビは「住民たちは、自助努力と他者との調和を保ちながら礼儀を守っている」と報じ、またハリケーン被害に遭ったニューオリンズのケースと比較しながら、商店などの略奪行為について、「そんな動きはショックを受けるほど皆無だ」と仙台からリポートしています。

 あるいは、中国の新華社通信の記者は、「信号機が停電し、交差点に警察官も立っていないのに、ドライバーはお互いに譲り合い、混乱はまったくない」と驚きをもって伝えていました。

 それだけではありません。被災地の避難所で十分な食料もない当初は、被災者が順番を守り、列をつくって少ない食物を平等に分配し、しかも全員が感謝の意を表しているニュース映像に、中国国内では「われわれ中国人は、モラル、道徳心の面ではまだまだ日本に遠く及ばない。被災した日本人に学ばねばならない」との声が期せずして挙がったといいます。

 

 

日本人の心となっている「教育勅語」

 

 それともうひとつ、今回の震災後の対応で感動的だったのが、わが身の危険も顧みず、福島第一原発では現場に赴き、地震・津波の被災地では懸命に死者、行方不明者の捜索・救援にあたった自衛隊員、消防隊員、警察官などの行動です。

 例えば、自衛隊が福島原発での放水作戦に出動が決まった時のこと。「これはいわば覚悟の作戦だ。強制はしない。行ける者は一晩じっくり考えて自分の気持ちを固めてほしい」と述べた上官の言葉に対して、全員が躊躇なく「自分が行きます」と口をそろえて答えたといいます。

 また、勤務先から直接、福島第一原発へ行くよう出動命令が下った、ある消防レスキュー隊の隊長が、家族に対して「必ず帰ってくるから、それまで安心して待っていてくれ」というメールをしたところ、奥さんから「家族のことは心配なさらず、日本の救世主になってください」というメールが返ってきたという感動的な報道もありました。

 まさに、自己犠牲をいとわず公のための任務を遂行するという、われわれのまぶたを熱くするようなできごとがあったのです。

 もちろん自衛隊員は、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえる」 と宣誓して自衛官になっており、これは他の公務員とは比較にならない重い義務だともいえるわけですが、その奥にあるのは、「教育勅語」にある「一旦緩急アレハ、義勇公二奉シ」という精神だったのだと思います。

 こうした意識は、なにも自衛隊員や警察官などの公務員に限りません。

 有名な話が、宮城県南三陸町職員で防災放送を担当していた遠藤未希さんです。彼女は最後まで「皆さん、津波が来ます。逃げてください」という放送を続け、最後に津波にのみこまれて亡くなりました。

 たとえ自分の身は危険にさらされても、津波が来る瞬間までマイクを握り続けた姿は、大東亜戦争の末期、樺太の電話局で交換手をしていた乙女たちが、ソ連軍が侵入してきたにもかかわらず最後まで職場を守り、「これが最後です。皆さん、さようなら、さようなら」といって自決していった姿に重なります。

 また、海水の侵入を防ぐために水門を閉めにいって津波に流された消防士も、お年寄りを助けにいってそのまま波にさらわれ殉職した警察官もいました。

 以下は岩手県の陸前高田市の市長さんから聞いた話です。同市では六十八人の職員が亡くなられていますが、その大半が「危険だから行くな。みんな避難しろ」という声を振り切って、市民を守るために職場を飛び出していった職員だったとのことです。市長さんは「だから、亡くなった六十八人は、私にとっては掛け替えのない職員だったんです」と声をつまらせておられました。

 自分の身を顧みず、勇気を奮い起こして「義勇公二奉シ」たこの人たちの姿は、まさに 「教育勅語」が説いた日本人の生き方そのものでした。

 「教育勅語」の精神が今も精神のDNAとして日本人の心の中に残っていたとしか考えられません。また、これらの話に感動した人たちも、そのことを思い起こしたのではなかったでしょうか。

 このことは、アメリカ・ジョージタウン大学教授で日本文学の研究者でもあるケビン・ドークさんが、「日本国民が自制や自己の犠牲の精神で震災に対応した様子は、広い意味での日本の文化を痛感させた。日本の文化や伝統も米軍の占領政策などにより、かなり変えられたのではないかと思いがちだったが、文化の核の部分は変わらないのだと思わされた」(『産経新聞』 三月二十五日)

 と論評していることとも重なり、とても的確な指摘だと感じました。

 では、こうした日本人の良質な精神、行動を生み出した「教育勅語」とは、どのようなものだったのか。改めてその成立過程から見ていくことにしましょう。

 

近代化の道を歩み始めた明治の日本★

 

 確かに明治維新は、日本を欧米諸国による植民地化から救い、新政府による富国強兵・殖産興業の掛け声の下、中央集権の国家体制を築き、さまざまな近代的法制度を導入し、教育制度を整え、産業を興し、憲法をつくり、国民が力を合わせて欧米と対峠し得る近代国家をつくり上げていった、まさに近代化の出発点でありました。

 その結果、日本はそれまでに締結した不平等条約により関税自主権も持たず、治外法権も撤廃できなかった遅れた国から、第一次世界大戦後には世界の「五大国」の一つに数えられるまでに発展していくことができたのです。

 その改革の出発点となったのが、「五箇条の御誓文」 でした。

一、広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スヘシ

一、上下心ヲ一ニシテ、盛二経論(世の多くの人々の様々な議論のこと)ヲ行フヘシ

一、官武一途庶民二至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

一、旧来ノ陋習ヲ破り、天地ノ公道二基クヘシ

一、智識ヲ世界二求メ、大二皇基ヲ振起スヘシ

 中でも、四、五項目は「将来に向けての開国宣言」といってもいいものです。国を開き、旧来の晒習を捨て、西洋の思想文物をどんどん取り入れ、それを学び、新しい日本をつくっていくのだという、先取の意気込みにあふれています。

 維新政府は国を挙げて、西洋文明の摂取に取り組みます。「岩倉使節団」は一年半も掛けて西洋を見聞し、現実の差を見せつけられる。その結果、産業を興して国を富まし、軍備を強化する「殖産興業・富国強兵」の実践と、国体体制の整備が何よりも大切だと考えるに至ります。

 

混迷する明治日本の精神文化・道徳★

 

 欧米文化に触れ、日本が遅れた要因は、封建制の歴史が長すぎたからだとして、日本を共和制にしようという意見も出てきました。政府が将来を嘱望して派遣した青年官僚の多くが、そのような主張を展開するようになり、佐々木や岩倉などの尊皇家と度々激しい議論をすることになったというのです。

 当時、岩倉使節団以外にも、江戸時代の各藩単位で多くの西洋視察団や留学生が欧米各国に派遣されていました。そうした人たちからも、古来の日本の国柄への不信を公言する者が現れました。彼らの中には「日本が遅れているのは、世界に通用しない日本語にある。日本語をやめるべきだ」などと主張する人間も少なからずいたのです。

 こうした、西洋に魂を奪われる若者は、年々増加し、明治十年を過ぎる頃には無視できない存在になっていきました。皇室のご存在や前述した日本語、さらには日本の精神文化を軽視する者が続出し、国の体制を揺るがすまでになったのです。

 そのひとつが、自由民権運動でした。ただ漠然とフランス革命に憧れ「フランスの共和制こそ理想の国家のあり方だ」「イギリスの議院内閣制こそ、わが国が導入すべき制度だ」と、彼我の国情の違いを無視して「天賦人権」だの「議会開設」だのを一方的に要求する強硬派が多数を占めていました。

 他方、こうした日本の文化的、政治的混乱に加え、学校教育の現場も混乱を極めていました。

 例えば、エリート校では「とにかく英語だ」ということになり、英語さえ教えればそれでいいというように、現場は植民地のような状況に陥っていたのです。昔から日本では勇者といえば、子供たちは鎮西八郎為朝、源義経などを語り、智者・忠臣といえば楠木正成、新田義貞をあげるのが常となっていた。ところが、今はそんな風は既になく、むしろアメリカ、ヨーロッパの豪傑を理想とするような風潮がみなぎつており、日本などは顧りみないような考え方の兆しがあった。つまり、欧米人を一等高く見て、日本人を劣等な国民とし、日本の歴史習慣を無視して欧米化せねば駄目だというような雰囲気になっていました。また、中央の教育界にはその頃、米国からの留学帰りが多くなっており、こうした連中が「学士会」というものを文部省内に組織して大いに羽振りをきかせていたというのです。日本の伝統的な教育、文化を教えることのできる旧士族などは、教育の現場から排除される傾向にありました。

 当時、天皇はこのような状況をご覧になり、「徳育に関する資源を編纂して、それを子供たちに教えたらどうか」と、山縣と楠本に自ら仰有られたのです。更に、芳川文部大臣に、天皇より改めて「教育上の基礎となるべき『箴言』を編纂せよ」と命じられ、これが教育勅語の発端となりました。

 

国体の基本理念と井上毅(いのうえこわし)★

 

 天保十四年、熊本藩の下級武士の三男として生まれる。体は丈夫ではないが、その神童ぶりは誰もが認めていた。横井小楠の四海兄弟説では、開国して貿易をやらなければに対し、国を開けば他国の悪習がドンドン入ってくる。キリスト教も入ってくる。その混乱をどうするのだ。「本当の文明ならそんなことは絶対にしないはずだ」と主張したのです。

 東京大学の助手に選ばれ、西洋の司法制度を詳しく学ぶために、フランスに留学します。留学中、井上は手段として「西洋に何を学べば日本の独立を保てるか」とばかりを考えていた。米仏は共和制、英国は不文法なので、日本のモデルにはなりませんでした。そして、フランスに勝ったプロシアだけが日本のモデルになるとの思いをもって帰国しています。日本で初めて、刑事訴訟法を紹介するのですが、これを植木枝盛が高く評価し、その抽象的な人権思想だけを利用して自由民権運動を繰り広げました。井上のように、人権を保障する制度までは考えていませんでした。

 大隈重信は英国流の議院内閣制を採用すべしとしたのですが、井上は岩倉や伊藤に進言して欽定憲法への制定に向かわせました。 

 

 ★皇室典範を作った井上毅★

 

 女性天皇は存在しても、女系天皇は一人もいない。女性天皇はあくまでも次の男系天皇への一時的な橋渡しという実態であった。皇位継承の流れはすべて男系でつながれている。例外はない。ゆえに、これを守ることが万世一系を守るということである。尚、女性天皇は結婚禁止。

 

 ◆明治憲法毅と井上

 

 シナ、ヨーロッパでは一人の豪族が、多くの土地を武力で占領し、一つの政府を立てて征服し、国家としている。欧米の国家成立は、君民の約束である国家契約で成り立っているが、日本は天皇の徳によって国家が始まる。即ち、天皇の源は、皇祖の心を知り、これを民に伝え、民の心を知ることだ。これは日本固有のものだから、井上は、明治憲法の第一条を「日本帝国は万世一系の天皇の治める所なり」とした。つまり、井上毅は天皇の徳による国柄とし、専制主義を排するように明治憲法を書き上げた。

 

明治憲法と教育勅語の基本理念★

 

 天照大神の命を受けた建御雷神(鹿島神宮の御祭神)が、出雲を治めていた大国主神に「この葦原中国は本来、天照大神の御子が『しらす』ところの国であるから、この国を譲るように」と国譲りの交渉をするお話です。

 建御雷神は海上に剣立て剣の先にあぐらを組んで、「我々は、天照大神と高御産巣日神の命令により、次のことを問うためにやってきた。汝がうしはける芦原中国は、我が御子のしらす国であると任命なさった。汝の考えはいかがなものか」

 その中の一説に、「大国主神が『うしはける』この地」と、「天照大神の御子が本来ならば『しらす』国である」という二つの謎の言葉が出てきます。そこで、井上はこの「うしはく」という言葉と「しらす」という言葉はどう違うのだろうか、という疑問を抱き、それを調べてみることにしたのです。

 すると、天照大神や歴代天皇に関わるところでは、「治める」という意味で「しらす」という言葉が使われ、大国主神をはじめとする一般の豪族たちのところでは「うしはく」という言葉が同様な意味で、使い分けられていることがわかったのです。二つの言葉は明確に違う使われ方をしていました。

 では、この「うしはく」と「しらす」は、どこが適うのか?

 井上は『言霊』という彼が書き残した文章の中で、こう説明しています。「うしはく」というのは西洋で「支配する」という意味で使われている言葉と同じである。すなわち、日本では豪族が私物化した土地を、権力をもって支配するというような場合にこれが使われている。

 それに対し「しらす」の意味は、同じ治めるという意味でもまったく違う。「しらす」は「知る」を語源にしており、天皇はまず民の心、すなわち国民の喜びや悲しみ、願い、あるいは神々の心を知り、それをそのまま鏡に映すように、わが心に写し取って、それと自己を同一化し自ら無にしようとされるという意味である。この「しらす」の理念こそが国体の根本であると確信しました。

 「支那(中国)、ヨーロッパでは一人の豪傑がおって、多くの土地を占領し、一つの政府を立てて支配し、その征服の結果をもって国家の釈義(意味)となすべきも、日本国の天皇の大御業(なさってこられたこと)の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめすという意義より成り立ちたるものなり」

 要するに、鏡というものは、それで人々の心を照らし、そこに映ったものを見るためのものである。それが「知る」ということであり、そこから「しらす」という言葉は誕生している。

 だから、天照大神はニニギノミコトが地上に降臨される時に彼に鏡を授けて、「これを見ることは、わが心を見るがごとくせよ」とおっしゃった。

 それは、神の心を知るということだ。その鏡を磨き上げて、にごりない心で常に神の心・民の心を知るということが天皇にとって最も大切なことである。従って、三種の神器の中で一番大切なものとして鏡が位置づけられている。こうした精神をもって歴代天皇はこの国を「しろしめして(治めて)」こられたのだ。

 「かかれば日本国の国家成立の原理は、君民の約束にあらずして、一つの君徳なり。国家の始めは君徳に基づくという一旬は、日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」

 すなわち、外国では国家成立あるいは憲法成立は、君民の約束といった形、あるいは国家契約といった形で成り立っているかもしれないが、日本ではなによりも無私の心で神々の心、民の心を知ろうとされ、それに自らを合わせようとされる天皇の「徳」によって国家は始まっている。これは非常に重要なことであって、日本国家学は日本固有のものであり、決してドイツなど西洋模倣の国家学ではないというのです。

 井上はこうして、留学で得た法学の知識をもとに、さらに日本の歴史伝統を踏まえた日本固有の君主のあり方に視点を据えた憲法案を起草し、それを天皇の名をもって国民に与えるという「欽定憲法」の制定に全力を傾けたのです。

 こうして井上は、明治憲法の第一条を、「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治ス所ナリ」としました。

 しかし、日本の近代憲法を世界に知らしめようとした伊藤博文らから、これでは法律用語として外国からも誤解を招くとの異論が出されたとみえ、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之レヲ統治ス」と最終的には改められることになります。

 明治憲法下の「国体」などというと、天皇が国家の主権を一手に掌握した絶対主義専制憲法、といったようなことがこれまでにもしばしばいわれてきました。しかし、井上の考えはそれとはまったく次元を異にしていたのです。そこには天皇中心の絶対主義専制国家などという発想はいささかもありませんでした。

 逆に、天皇が国民の思いを広く「知る」ためには、むしろ専制主義であってはいけない、というのが井上の考えでもあったのです。明治憲法が、当時の諸外国が驚くほど議会の権限を広く認めた内容になっているのは、その表れといえるでしょう。明治憲法はプロシア憲法の単なる引き写しではない。諸外国の憲法の良い点を取り入れながらも、まさに日本の憲法としてつくられたものだったのです。その中心となったものは、まさに国体の精神であり、それは「しらす」の精神に基づくのでした。

 この「しらす」の精神は、次に井上が手がけることになる「教育勅語」にも生かされることになりますが、このことは後で詳しく触れたいと思います。

 

帝国憲法の「しらす」が日本国憲法では「象徴」に

 

 では、現在の日本国憲法になんと書かれているか。先ほど言いましたが 「天皇は日本国の象徴だ」「日本国民統合の象徴だ」ということが書かれています。実は、現憲法の第一条というのは、旧帝国憲法の第一条が言っていることと、まったく同じなんです。

 天皇が日本国民統合の象徴というのは、天皇の姿を見ると日本が見える、という意味です。たとえば、文化を含めた日本国には形がないから、見ることも触ることも本来はできない。でも天皇の姿を拝することで、日本を見ることができるんです。これが、天皇が日本を象徴する、という意味です。

 あと、国民の絆です。日本人が日本人としての意識をもってまとまっている状態。国民統合ですね。国民の統合なんてものは、いよいよ形なんかないですから、見たり触ったりすることはできません。でも、天皇のお姿を拝することで、国民の統合が見えるんですね。

 ということはつまり、天皇の統治がうまく行っているということですよ。もしそうでなければ、天皇が象徴であるわけないですから。つまり、帝国憲法はそのような形の統治のことをいい、現憲法はその結果生じている象徴をいっています。原因は「しらす」、結果が「象徴」なんです。全然雰囲気違いますけれども、中身はまったく同じです。それを押さえておいてほしいですね。

 

 大国主命は皇位継承権を持たない

 

 ではなぜ大国主命とその子孫が「うしはく」存在なのかといったら、もともと天照大御神と大国主神は赤の他人ではない。さかのぼれば、国を譲る神と譲られる神は親族である。ただし大国主神は、須佐之男命の六世孫です。五世孫までしか相続権がないというのが、『古事記』編纂の当時、今から千三百年前の皇位継承のルールだったんです。ですから大国主神は、親族なんだけど皇位継承権を持たないポジションと考えることもできます。いくらよい政治をしようとも、天皇になる立場ではない。だから、大国主神が国をつくっても、彼は 「うしはく」者であって、「しらす」者ではないわけです。

 そして、ここで一度ちゃんと力関係をはっきりさせておかなければいかん、ということで、「地上世界ほ天照大御神のしらす国だってわかってる、君?」「自分がやってることは、しよせんうしはくだってこと、わかってる?」と。そう問いかけたわけです。

 これで「しらす」と「うしはく」の違いがわかったと思います。日本の統治の根幹に関わる問題ですが、『古事記』『日本書紀』は王朝が生まれたきっかけを明確に記してくれていますので、こういうところから、今の日本の国の形のベースを知ることができるんですね。

 

◇★教育勅語の起草

 

 文部省案を井上が否定し、彼は七項目の作成条件を掲げます。この気遣いは、太子の十七条憲法「神・仏・儒を大切にせよ」を想起させます。

  第一.教育勅語は他の行政上の勅語と同様であってはならない。

立憲君主制の国では「君主は臣民の良心の自由に干渉せず」というのが基本原則であるがゆえに、権力による強制ではなく、社会上の君主の著作として発せられるのが好ましい。

  第二.勅語には天とか神とかいう言葉を避けなくてはならない。

宗教上の争いを引き起こさないようにとの配慮です。

  第三.勅語には深遠な哲学上の理論を避けるべき。

哲学上の理論は、必ず反論が出てくるので、天皇が片方に肩入れすることはない。論争は専門家に任せておくべきだ。

  第四.勅語には、政治上の臭味を避けるべき。

政治上の思惑や言葉は、陛下のお言葉のありかたとしてふさわしくない。

  第五.漢学や洋学に踏み込むことも、陛下のお言葉としてはふさわしくない。

  第六.「これをしては、あれをしてはいけない」などの消極的な言葉を用いてはならない。

  第七.宗派争いを助長したり、それに巻き込まれるようなことがあってはならない。

 

 教育勅語原文「国憲ヲ重シ、国法二遵ヒ」の部分を元田は、天皇の統治大権を制限するもので好ましくないとしましたが、天皇はあえて「それは必要だから残すように」と仰有られたといいます。憲法第四条に「天皇ハ……此憲法ノ条規二依り之ヲ行フ」とあるのを、天皇はよく認識しておられたのです。

 

★★現代語訳 その1》

 

 私が思うには、わが祖・神武天皇をはじめとする歴代の天皇がこの国を建てられ、お治めになってこられたご偉業は宏大で、遼遠であり、そこでお示しになられたひたすら国民の幸せを願い祈られる徳は実に深く、厚いものでありました。それを受けて、国民は天皇に身をもって真心を尽くし、祖先と親を大切にし、国民すべてが皆、心を一つにしてこの国の比類なき美風をつくり上げてきました。これはわが国柄のすぐれて美しいところであり、教育が基づくべきところも、実にここにあると思います。

 国民の皆さん、このような教育の原点を踏まえて、両親には孝養を尽くし、兄弟姉妹は仲良くし、夫婦は心を合わせて仲睦まじくし、友人とは信じ合える関係となり、さらに自己に対しては慎ましやかな態度と謙虚な心構えを維持し、多くの人々に対しては広い愛の心をもとうではありませんか。

 また、学校では知識を学び、職場では仕事に関わる技術・技法を習得し、人格的にすぐれた人間となり、さらにそれに留まらず一歩進んで、公共の利益を増進し、社会のためになすべき務めを果たし、いつも国家秩序の根本である憲法と法律を遵守し、その上で国家危急の際には勇気を奮って公のために行動し、いつまでも永遠に継承されて行くべきこの日本国を守り、支えて行こうではありませんか。

 このように実践することは、皆さんのような今ここに生きる忠実で善良な国民だけのためになされることではなく、皆さんの祖先が古から守り伝えてきた日本人の美風をはっきりと世に表すことでもあります。

 ここに示してきた事柄は、わが皇室の祖先が守り伝えてきたものでもあり、われわれ皇室も国民もともどもに従い、守るべきものであります。これは昔も今も変わるものでなく、また外国においても充分に通用可能なものであります。私は皆さんと一緒になってこの大切な人生の指針を常に心に抱いて守り、そこで実現された徳が全国民にあまねく行き渡り、それが一つになることを切に願います。

 

★★現代語訳 その2》

 

 ここで、大雑把ではあるが『教育勅語』の内容を現代語の意訳で眺めていきたい。書き始めの「朕惟(おも)フニ」は勅語全体にかかる言葉で、以降はすべて明治天皇の考えが示されていることが分かる。そして、先ず歴代天皇は立派だった旨が「太古の昔に徳のある国を建てて育んできたことが立派だった」と語られた後、立派だったのは歴代天皇だけではなく、「臣民」つまり、国民に触れ、「国民も立派だった」と続く。すなわち「いつの時代の国民も、心を一つにして国をよく支えてくれた」というのだ。勅語の冒頭に天皇と国民との関係性が示されていることには重要な意味がある。天皇と国民が一体となつて二千年来、国を守り育ててきたことが、日本人の修身・道徳の根本であることが示されている。

 続けて勅語は「親孝行しなさい、兄弟は仲良くしなさい、夫婦は伸睦まじくしなさい、友達はお互いに信じなさい、そして、我儘な振る舞いをせず、周りの人たちに愛情を注ぎなさい」と、人間としての基本的な道徳を説く。儒教の教えをそのまま丸写ししただけという指摘があるが、それは儒教を学んだことがない人の意見であろう。儒教的に書くなら、子は親に従い、弟は兄に従い、嫁は夫に従い、となるはずである。

 その後勅語は「勉強しなさい、職業を身に付けなさい、賢い人になりなさい、徳を備えた人になりなさい、そして、それを世のため人のために使いなさい」と、国民国家の一員としての生き方を説く。他者のために生きなさいという伝統的価値観がここに投影されているのである。

 続く「常に憲法と法令を重んじ、もし国が危機に直面したら、正義に照らし合わせて勇気を持って公のために奉仕して、万世一系の皇統が続くようにしなさい」という部分は「戦争が起きたら天皇のために戦って死ね」 と理解され、『教育勅語』が「軍国主義教育の象徴」といわれる根拠となつちが、そう読むのは誤りである。

 ここは「国の危機にあたり、国のためにできることを実践しなさい」という意味であり、「天皇のために死ね」という意味ではない。そもそも、近代国家においては憲法の明文規定の有無にかかわらず、国民には当然に国防の義務がある。国民国家が攻められて国・民が国を守らなければ、一体誰が国を守るのか。中国と韓国の憲法には国民の国防義務が明記してあるし、EU27カ国中、20カ国が憲法に兵役の義務を書いている。これには敗戦国のドイツも含まれる。もし日本国民に国防義務がないというのであれば、それは国民国家の否定を意味する。

 再び勅語に戻っていこう。次に「これまでに述べてきたことは、天皇のために実行するのではない。ご先祖棟たちが大切にしてきた生き方を実行してこれを顕彰することは、あなたたち自身のためになることなのです」と説く。

 そして、全体を総括する言葉で締めくくられる。「ここに示した生き方は、歴代天皇の遺訓で、天皇と国民が共に守るべきものであって、これは時代と共に変化するものではなく、また世界のどの地域においても共通するものであるから、天皇である私がまず率先してこれを実行するので、あなたたちもぜひこれを実行し、徳をひとつにすることを願っている」

 かつて、世界の王や皇帝が民に命令を下したことは数多の例があろうが、修身・道徳の規範を示して、これを自ら実践した帝王が他にいたであろうか。現代日本人が『教育勅語』を取り戻して、国民こぞってこれを実行したら、日本は素晴らしい国になるであろう。たとえこのまま復活できなくとも、小中学校の道徳の授業で、『教育勅語』の精神を余すところなく教えることができたら、と思う。([正論 201406月号 君は日本を誇れるか]竹田恒泰著より抜粋)

 

◇絶賛された教育勅語

 

 当時日本は、東郷平八郎率いる連合艦隊が世界最強といわれていたロシア・バルチック艦隊を破り、中国大陸でもロシア軍に勝利を重ねていました。「極東の小さな島国である日本が、大国ロシアを相手に戦況を有利に進めている。」このニュ-スは世界中を駆けめぐり、世界の人々を驚嘆させました。

 一方、ロシアも黙って見ていたわけではありません。欧米各国を味方に引き入れるべく、彼らも彼らなりの活発な海外広報戦略を展開していました。そうした中、日本政府は対日世論を親日的なものにするために、貴族院議員の末松謙澄(伊藤博文の娘婿)をヨーロッパに、また金子堅太郎をアメリカに派遣し、広報活動を展開することになります。

 その時、この二人は教育勅語の英訳をもっていき、それを説明して、「ここにロシアにも負けない日本人の精神が込められている」と各地で講演し、大変な感動を呼んだ、という記録が残っています。

 実際、金子は自身の著した『日露戦役秘録』のなかで、「米国の陸海軍人や教育家たちは日本兵の強くなった訳は此の教育勅語及軍人読法(軍人勅諭)のお陰である事がわかって皆大に喜びました」と記しています。

 そして明治三十八年九月五日、アメリカ・ポーツマスで日露両国の講和会議が開かれ、日本が世界最強を自負していたロシアを屈伏させるや、日本に対する関心は世界中に爆発的に広がっていったのです。

 中でも英国は、日本発展の原動力を、教育勅語をもとにした道徳教育の力と捉え、講演者の派遣を日本政府に要請してきました。この時、文部省が白羽の欠を立てたのが、英国への留学経験もあり、英語も堪能だった元東京帝国大学総長で理学博士の菊池大麓だったといいます。

 菊池はロンドンへの派遣が決まると、直ちに「教育勅語」の新たな英訳に着手。これをテキストに、明治四十年、英国各地を巡回して、精力的に日本の道徳教育の紹介活動を展開していったといいます。そこで菊池は、教育勅語の根本にある道徳は「忠孝」にあり、「忠孝」は他のあらゆる道徳の源泉であることを力説。

 「勅語には一定の行動規範が示されており、われわれは 『以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』。これは天皇の忠良の臣民たるのみならず、『又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン』からである。すなわち、われわれはこうして天皇・国家に対し、また両親・祖先に対して義務を完遂することができるのである」と述べたというのです。

 つまり、日本国民は天皇・国家のみならず両親・祖先を敬うことにより人格を陶冶し、国家永続の力を求めようとしているとして、祖先崇拝は「古代から現在に至るまで、常にわが国の性格を陶冶する最も有力な要素であった」と語り、それは西洋文明が日本を席巻しても変わることがなかった、と説いたのです。

 これに対して全英教員組合の機関誌は、「教育勅語と合致した教育精神を有する国民は、いかなる困難に直面しても進化上の出来事と済まされ、決して進歩の大道を逸脱することはない……この愛国心が強く、勇敢無比な国民は、教育上の進化を統け、結果としてその偉大な勅語に雄弁に示された精神をもって、国民的伸展の歴程を重ねていくであろう」と論評しました。

 また、教育専門月刊誌『エデュケーショナル・タイムズ』は、勅語の前段を引用して、「ここに威厳があって思慮深く、人心に感動を与えるような訴えかけの好例を発見することができるであろう」と教育勅語を絶賛してやまなかったという記録が残っています(以上、平田諭治『教育勅語国際関係史の研究』より)。

 

◇日本弱体化の切り札にされた「教育勅語」

 

 占領軍としても、欧米各国でも絶賛され、普遍的で正しいことしか書かれておらず、しかも国民に権力をもって命令・強制するわけでもないこの教育勅語を、いきなり否定することは簡単にはできないことでした。

 そこで、まず憲法を変え、次に教育基本法を押しつけて外堀を埋めた上で、衆参両院が教育勅語の「排除・失効」を決議するようにもっていったのです。

 教育基本法を成立させた時も、「教育は教育基本法ですべて行えるものではない。日本人の心の源泉となっている教育勅語はその背景の精神をなすものであって、そのまま残すべきだ」という意見の大臣や議員が大半を占めていました。

 当時の吉田内閣も「教育勅語は普遍性豊かなものであって、今後の日本社会でも十分通用する内容のものである」と表明していました。しかし、最終的には占領軍によって排除・失効へともっていかれたのです。

 その結果、どうなったかというと、「父母二孝l「兄弟二友ニ、……」 といった日本人が本来持っていた道徳観が徐々に失われていくことになり、拠るべきは「個の自由」であり「人権」のみであるという世の中になっていきました。それに代わる新たな規範を、という要求はときおり聞かれたことは事実ですが、世の中を動かすような流れにはなりませんでした。

 

◇今甦る「教育勅語」の精神

 

 平成二十三年三月十一日に起きた未曾有の「東日本大震災」後の、世界も絶賛した日本人の冷静な行動とボランティア精神は、本書の冒頭でも述べたように、すでに失われていたと思われていた教育勅語の精神が日本人の心の中に民族のDNAとして、ささやかな形ではあれ、依然として残されていることを証明しました。

 それだけではありません。漂流する政治とは次元の異なるところで、まさに今上陛下による「しらす」の精神そのもののお姿を、私たちは拝したのです。

 以下は、甚大な被害を受けた宮城県南三陸町の佐藤仁町長が記す、被災地における両陛下のお姿ですが、読む者をして感激させずにはおきません。

 「ヘリコプターで高台にある小学校に到着された両陛下は、グラウンドから壊滅した町並みを見られた後に、深々と黙礼されました。その後、約二百人が避難していた中学校の体育館を訪れたのですが、とても心に残ることがありました。

 両陛下にはスリッパが用意されていました。私は先に体育館に入ってお待ちしていたのですが、入り口付近で皇后陛下は私がスリッパを履いてないのを見られると、自らもさっとお脱ぎになられたのです。また、天皇陛下もそうなされようとしたので、私はそのままお履きいただけるように必死にお願いいたしました。こうした両陛下のさりげない謙虚な姿勢から、国民はいつも勇気と元気をいただいているのでしょう。皇室の『存在感』というものを間近で実感いたしました」

 両陛下はまずご到着されるや、がれきの山に向かって深々と頭を下げられ、黙躊を捧げられたのです。町長はこれについてはあっさりとしか触れておられませんが、私にはこれは実に貴い光景だと思われてなりませんでした。

 この時の写真が翌日の新聞にも大きく載りましたので、今もそれを拝した時の感動を記憶されておられる方も多いかと思います。両陛下は何をなされるよりもまず先にこの大震災の犠牲者のみたまに深い祈りを捧げられたのです。

 その後、両陛下は体育館に進まれ、町長がここに記すようなスリッパの一件が起きました。私はこうした両陛下の行為の一つ一つに、あくまでも被災者と同一の平面に立たれ、彼らの思いをより深く知ろうとされ、彼らの心と一体になろうとされてやまない、両陛下の切なる思いが感じられてならなかったのです。

 町長はさらに記しています。

 「さらに私が感動したのは、避難所の体育館を出られる際、天皇陛下から『がんばってください』とお声をかけられると、町民から『ワァ』という大きな歓声と同時に、拍手が巻き起こったことです。泣いている人もいました。それまで町民は慣れぬ避難所生活で疲れ、精神的にもギスギスしていたところを、両陛下のお見舞いによって本当に救われたのです」

 これこそが教育勅語が前提とした、天皇と国民の「一体性」だったのではないでしょうか。

 なぜ泣く人がおり、人々が救われたかといえば、両陛下の真心が人々に伝わったからです。両陛下は本当にわれわれ被災者のことを考えていてくださるのだとれこそが井上が天皇の「徳」と呼んだものだったと私は思うのです。

 大震災直後の陛下のお言葉にもそれが表れておりました。陛下は「被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ」とお呼びかけになられました。つまり、「心を寄せる」とは、その相手のことを知ろうとし、それに一体化する、ということです。井上風にいえば、「しらす」ということです。

 ところが、今の政治家には、この「心を寄せる」という心が不足しているのではないでしょうか。というより、自分勝手な「我欲」があるだけなのです。どうすれば支持率を上げることができるか、あるいはどうすればメディアに好感をもって報道してもらえるか、ということです。

 いつからこんな世の中になってしまったのか、と嘆かわしい限りです。

 しかし、嘆いているだけでは日本はよくなりません。こうした世の中を正すためにも、私たちはもう一度、この教育勅語の原点に立ち返る必要があると思います

 

「十七条憲法」は世界に誇る知的財産

 

 日本に「憲法」という言葉が初めて現れるのは、養老4年(720)に完成したとされる『日本書紀』の巻第二十二の「推古天皇紀」にある「皇太子親肇作憲法十七条僚」の一文である。いわゆる聖徳太子の「十七条憲法」だ。

 「十七条憲法」という伝統は、古来の日本人の考え方がわかるということが重要な価値がある。『聖書』や『コーラン』がそれらの聖典が教えるように、その内容が歴史的事実かどうかとは関係ないように、あるいは、『古事記』の神話的記述が歴史的事実かどうかが問われないように、聖徳太子の「十七条憲法」は実在の重さに裏打ちされている。

 一般的に「十七条憲法」に書かれている内容は、当時の官僚が心得ておくべきモラルだとされている(※神に仕える掟)。第一粂の「和を以って貴しとなし」が有名だが、賄賂の禁止や実力による適材適所、勤務規定、賞罰、徴税についてなど、行政法規も多く含む。

 特に注目すべきなのは、第一条に書かれ、さらに最終第十七条で再び念を押している「議論の大切さ」である。これは「合議による行政が当時すでに標準」とされていた。

 アメリカはもちろん、ヨーロッパが誕生する遥か昔から、日本は「合議制行政」、すなわち「議会制民主主義」の精神の重要性を成文化していたことになる。

 

 

  「憲法は権力を縛るもの」という定義は、日本ではナンセンス  

 

 英語やフランス語の「ConStitution」を、日本人は当初「憲法」とは訳さなかった。西欧の憲法が革命にともなう新国家設立のために必要とされた法だということを最初にはつきりと認識した人物は、おそらく「大日本帝国憲法」の起草に携わった井上毅だろう。

 井上毅はそれらの法を「建国法」と訳し、日本古来の憲法とは別物だと考えていた。「十七条憲法」、そしてその後の武家政権下での「武家諸法度」などの法度も井上は憲法の一連と捉えていた。彼は「西洋の法と日本の法とは、君主とそおlの権限を明らかにしていないことが性質を異にしている」と考えていたのだ(※日本神話は伊弉諾伊弉冉の「誓約」で始まり、神武天皇の建国の詔・十七条憲法、そして天皇親政の本質は「命令」ではなく「知らす」なのです。)。

 なぜ、わが国の「憲法」では、君主とその制限を明らかにしていなかったのだろうか。それは、わざわざ言葉で説明するまでもなかったからだ。言わずもがなのことだからである。(※律令制を以て、日本の国体を表現したのですが、中国とは全く異なり、トップに権威としての陛下、その下に右大臣と左大臣が居て、右大臣は政治と官僚のトップで、陛下の臣ではあり、陛下は政治にタッチしないのが伝統だった。そして、陛下直属の左大臣は司祭のトップで、位としては右大臣より上だった。右大臣は権力を握り、貴族、藤原氏、武士、代議士などへと、変遷したが、日本式の律令制の根本は変わらなかった。つまり、明治維新は、右大臣の交代であり、革命ではなく政権交代だったんです。)

特に長い歴史の中で「天皇親政」の時期以外は権力を持ったことがなかった天皇は、日本の過去の「憲法」でも言及はほとんどない。権力と無縁であったとともに、言葉であれこれ説明する必要もなかった。それは、ヨーロッパの「王権」とはまったく異なるもので、京都御所の「塀の低さ」と「セキュリティの横さ」が何よりもそれを雄弁に物語っている。

 『日本書紀』に書かれた推古天皇の皇太子が「十七条憲法」を発した聖徳太子とされ、『日本書紀』に書かれた四天王寺の建立、また法隆寺とのゆかりから、聖徳太子は8世紀にはすでに「日本の釈迦」と崇められていた。親鸞、源頼朝、徳川家康も熱心に信仰した。

 鎌倉時代の「御成敗式目」は51条は17条の3倍数、室町時代の「建武式目」は17条、江戸時代の「禁中並公家諸法度」もまた17条というように、「十七条憲法」は日本の為政者に常に意識され続けた。それだけ「十七粂憲法」は、日本の長い歴史の中で手本とされ、鎌倉時代以降に権力を待った武家からも尊重されていたのだ。(※武家が公家諸法度に刺激を受けたからです。そして、商人が刺激を受け、暖簾の中を聖域とたのです。だから、日本の商売は世界諸国とは姿勢が違うのです。)

 武士が作ったそれらの「憲法」には、君主が誰であるかは明記されていない、というより積極的に明記しなかった。それは日本の古来の作法だからである。

 日本では古来、政権は「公儀」と呼ばれた。特に、徳川幕府開聞以降の武家、商家、農家の家訓には、その一条目に、「公儀の御法度かたくあい守り」の一文が出てくるのが常である。

 公儀とは、「天皇の意向を受け、天皇になり代わって政治を執っている者」という意味である。政権を誰が獲ろうが関係ない。誰が、何を言わずとも、古来、日本の君主は天皇だった。

 公儀という言葉は、江戸時代、長屋の熊さんや八っつぁんも使っていた。公儀という言葉が使われるとき、そこには必ず天皇が「公儀」を透かし見た背後におわす、つまり存在することは重要である。

 「君主としての天皇」を明文化したのは、「遣隋使・遣唐使」を採用していた一時期を除いて、明治の「大日本帝国憲法」が初めてである。言わずもがなのことを明文化した「大日本帝国憲法」が、世界的な帝国主義の潮流の中で日本国独立のための重要な外交手段のひとつだったこともここからわかる。

 天皇は「君主」、つまり「国家の最高権威」である。また後で詳しく述べるが、天皇は「シラス」という自己制限の明らかな統治方法を伝統として継承している。「十七条憲法」は、天皇になり代わって政治を執る者たちの方法論を条文化したもので、後の為政者は明治新政府に至るまで、「十七条憲法」を礎に法度(法律)の数々を積み上げてきた。

 その歴史的構造は、前述したイギリスに比べ、日本のほうが6世紀ほど早いという以外は変わることがない。イギリスの例ひとつをとってみてもわかるように、日本は国家運営の基礎法典としての憲法を必要としない国なのである。明治の偉人たちが近代化を推進する中で、「Constitution」という英語・仏語を最初は「憲法」という日本古来の言葉に置き換えたくなかった理由もそこにある。しかし、「Constitution」に「憲法」という日本語を後に充てたことが、近代日本の宿命であった「近代化=西欧化」の足かせとなり、悲劇の元になつたのかも知れない。

 「諸国に謝罪し続けなければならない日本」という状態は、GHQの占領政策によるものだ。占領がトカレテ4年が経つ現在もそこから抜け出せないのは、明らかに日本側に責任がある。敗戦国としての権利を考えると云うことは、敗戦に正しく向き合うと云うことに他ならない。この欠如に、敗戦国の問題がある。現行憲法論議の核心はここにあり、敗戦に正しく向き合おうとしないところに、護憲も改憲もないと思う。

 今年(平成28年)6月末にスクランブル発進した航空自衛隊のF15戦闘機が、中国空軍の戦闘機に戦闘態勢をとられることがあった。そのとき自衛隊機は、ミサイル発射の照準となるレーダーを当てられた。幸い、わが空軍(空自)の果敢で優秀なパイロットが敵機ミサイルレーダーを撹乱するフレアーを発射し、難を逃れた。現在の憲法9粂に規定される自衛隊法では、領空侵犯する敵機から攻撃されなければ、攻撃することができない。正当防衛しか許されていないからだ。つまり、自衛官は絶えず死と隣り合わせにいる。

 そんな危険を防ぎ、そもそも敵国に領空侵犯、領海侵犯を許さないようにするのは、実は、非常に簡単である、憲法九条二項をこう変えるだけでいい。

《前項の目的を果たすため、我が国は国防軍を保持する》

 これだけで当面は十分だ。まず「この部分だけを真っ先に改定する」と国会や国民が広範囲に議論すれば、常識的に考えて万人に理解されるはずだ。中学生でもわかることだろう。

 

取り戻すべき「アメリカ建国の精神」とは

 

 そもそもアメリカは建国の段階から多宗教社会であり、宗教迫害を受けた人に対して信仰の自由を守る「約束された地」として国造りを行いました。自分の身は自分で守って懸命に働くことでこの「約束された地」を発展させていくという「自助」が建国の精神です。ですから、アメリカに来て働かずに食べさせてもらおうという人間を受け入れることはアメリカン・ドリームを損なうというのが、基本的な中産階級のアメリカ人の考え方です。

 また、アメリカの法的秩序構造は、まず、神への信仰があり、信仰が道徳の基礎であり、道徳の下に秩序があり、秩序の下に法があるというものです。信仰があってこそ、自由も秩序も法も成り立つというのがアメリカの国家哲学なので、アメリカの保守派にとって宗教を尊重しないということはあり得ない。

 アメリカ合衆国憲法の保障する信教の自由とは、政府が様々な信教の自由を保障する役割を果たすことなので、空港などの公共施設でも祈りたい人たちのために祈りの場を確保するというような形でそれぞれの信教の自由を保障しています。

 本来、このような国家哲学が憲法の基礎でしたが、歪められてしまいました。世界的に有名な法学者で、アメリカ合衆国憲法の専門家のロバート・ボーク博士にインタビューしたとき、憲法にコモン・ロー(伝統や慣習にのっとった不文法)を書き込んでおかなかったのは失敗だった、自由社会においてこそ国民が共有できる道徳・伝統・秩序が不可欠の要素であるのに、左翼法学者がいつの間にか文字で書かれた条文(憲法典)だけを憲法の全てにしてしまって、本来の憲法であるコモン・ローが蒸発してしまったと嘆いていました。

ローズベルトの後、アメリカの保守派は憲法起草者の政治思想を正確に理解するところから憲法学の立て直しをしようとしました。これらの人々は「オリジナリスト」と呼ばれます。ところが、憲法典をサヨクが都合のよいように勝手に解釈する「アクティビスト」たちによって、司法界も学会も支配されてしまいました。本格保守のレーガン大統領でさえ、議会とメディアの反対に阻まれて、憲法は条文だけではなく不文法も大切だと言っているまともな保守のロバート・ボークを最高裁判事に任命できませんでした。その後アメリカの憲法判断はますます左旋回、し、今やトイレでさえ男女別にするのは男女差別であるという無茶苦茶な話になりつつあります。

 不幸なことに、アメリカの白人が歴史上酷いことばかりやってきているので、それに付け込んで左翼の連中が「ホワイトギルト」(白人であることの罪)を徹底的に刷り込み、黒人やヒスパニックに配慮して貢ぐことが白人としての責務であるというようなイデオロギーを推進しています。(※英国も同じ