皇祖皇宗の遺訓=大御心
皇祖とは天皇陛下は神武天皇か天照大神
皇宗とは第2代綏靖(すいぜん)天皇以下の代代の天皇
我が皇祖皇宗=天皇陛下と臣民全ての先祖
天皇は臣民を大御宝我が子として考え大切にし、臣民が天皇陛下の大御心(こころ)を敬って大切にするということは、上からも下からもお互いをいたわり合いつくし合うということであり、これを「君臣一如」と言います。
どちらが偉いかということではなく、それぞれの分をわきまえることから始まる。
「分を弁える」
自分が今あるのは何の御蔭か、先祖の御蔭、主君の御蔭、天地神明の御蔭であると常に忘れずに分際分限を弁える。
恥を知り、信義のため誠を盡す実践が「分」という生き方
教育勅語は儒教の教えではありません。
臣民というのは「臣=公家・武士」と「民=民衆、農民や商人」のことです。
儒教の身分階級は厳しいので臣と民が同列になることはありません。
徳目も似ていますが厳密にいえばまったく違うものになっています。
教育勅語を批判する方はコピペのように国民主権や基本的人権を出されますが、起草したのは日本帝国憲法をつくった中心人物の井上毅が教育勅語を起草するにあたって以下の事に作成しています。しかも人権については(1)にあるように、心の自由に干渉しないようになっています。
天皇陛下の御言葉といえど、国務大臣の副署がないので法的強制力はありません。
嫌ならことわっても不敬罪をとわれません。
(1)君主は臣民の心の自由に干渉しない
(2)敬天尊神などの語を避ける
(3)哲学理論は反対論を呼ぶので避ける
(4)政事上の臭味を避ける
(5)漢学の口吻と洋学の気習とも吐露しない
(6)君主の訓戒は汪々として大海の水の如く
(7)ある宗旨が喜んだり、ある宗旨が怒ったりしないもの
教育勅語が天皇を崇拝するカルト宗教みたいなもので、皇室の繁栄のためだけにあるのだとしたら、なぜ日本は戦争になったのでしょうか。
昭和天皇は、満洲事変にも支那事変にも対米開戦にも、全部反対していました。
それにも関わらず、天皇の反対意思は押し切られ、日本は戦争に突入し、焦土と化したのです。
今は日本国憲法第1条で「天皇は日本国の象徴である」と規定されていますが、実はそれ以前から、天皇は国民の大多数が決めたことを否定できなかったのです。
さらに、これもGHQが理解できなかったことですが、日本の「天皇と国民の関係」というのは、他国の「君主と国民の関係」とは違います。他国では国民は君主のために存在します。だからいざ国が危なくなると、君主は命乞いをしたり、国外に逃げたりします。しかし日本の天皇はそれとは違い、常に国民の幸せを祈ります。
昭和20年(1945年)9月27日、昭和天皇とマッカーサーがアメリカ大使館公邸で対談を行いました。当初マッカーサーは、昭和天皇が命乞いをするのではないかと思っていました。
しかし昭和天皇の言葉は、マッカーサーにとって意外なものでした。藤田尚徳著『侍従長の回想』によると、昭和天皇は次のような御発言をされました。
「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責在はない。
私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が食料に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
また、マッカーサーは昭和天皇の御発言を受けたときの感想を、後に回想録の中でこう述べています。
「私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである」
このように、天皇は国民の幸せを祈り、国民は天皇を想い、お互いを大切にし、一緒に前へ進んでいく、というのが日本という国です。
他国の「君主と国民の関係」とは違うわけです。